【ISO的読書日記】ISOマネジメントシステムの「守備範囲」を弁える 〜『修業論』(内田樹)より

"修業というのは、そういう意味では非合理的なものである。達成目標と、現在していることの間の意味の連関が、開示されないからである。「こんなことを何のためにするんですか? これをやるとどういうふうに芸が上達するんですか?」という問いに回答が与えられないというのが、修業のルールである。"

 
 

 

本書は、哲学者であり武道家でもある著者による、武道、中でも特に武道における「修業」についての考察を中心に書かれた本。著者の著作は『寝ながら学べる構造主義』を初めて読んだ時、その分かりやすさに非常に感銘を受け、映画(『三島由紀夫vs東大全共闘50年目の真実』)やテレビ(『100de名著』)などでの発言にも共感するところが多く、その後『日本辺境論』や『街場の芸術論』、『コモンの再生』など数冊を読んできましたが、本書は初めて読む武道家としての著者の一面を知ることができ、興味深く読みました。

 

「理不尽な」師匠は本当に理不尽か?

よく映画などで一見何の役に立つのか分からないような厳しい修業を強いる師匠に反発する弟子に対して、師匠が「口答えをするな」と言って何の説明もなくとにかく従わせる、というような「理不尽な」場面が描かれることがあります。これは本当に「理不尽」なのでしょうか。

 

確かに、弟子からすれば、厳しい修業をするのだから、それによって何が得られるのかを知りたい、何のためにするのかが分からないまま辛い努力をするのには耐えられない、という気持ちも分かります。

 

「修業」の成果は説明できず、目標設定できない

だったらここで、「これだけ努力すればこう言った成果が得られる」という説明をすれば良いのでしょうか。このような説明は一見合理的ですが、そこには「深刻な欠陥がある」と著者は言います。

この「努力と成果の相関」スキームには深刻な欠陥がある。それは人間の身体をシンプルなメカニズムとしてとらえてしまうことである。入力負荷をn%増加すれば、身体能力がn%向上する、そのような単純なメカニズムとして自分の身体をとらえてしまうようになることである。

修業によって身体の使い方が変われば、必ず身体的な出力は変化します。しかし、「そのときに変わった値は、それまで用いていた度量衡では考量できない」のです。

確かに動きは変わった。だが、何がどう変わったのかを数値的に表示することができない。それは「ものさし」では重さが量れず、「はかり」では時間が計れないのと同じことである。「運動の質が変化する」というのはそういうことである。

従って、修業して獲得されるものは、獲得できた後に、あくまで事後的に「ああ、こういうものだったのか」という形で分かるものであり、その度量衡を持たない修業を始める前の人には「意味不明」なのです。このような経験を、著者は以下のような言葉で説明します。

それまで自分自身の身体運用を説明するときに用いていた語彙には存在しない語を借りてしか説明できない動き、そのようなものが「できてしまった」後に、「私は今いったい何をしたのか?」という遡及的な問いが立ち上がる。それがブレークスルーという経験である。

「私の心身のパフォーマンスの向上」というときの「私」が、昨日とはもう別人になったということである。「昨日の私」がめざしていた場所とは別のところに「今日の私」はたどりついてしまったということである。

以上のようなことから、著者は「修業」というものを以下のように定義します。

修業というのは、エクササイズの開始時点で採用された度量衡では計測できない種類の能力が身につく、という力動的なプロセスです。

「修業」とはこのような性質を持ったものであるので、修業する前に明確な目標設定をすることはできません。なぜなら、その時点では自分の中にできたときの「身体実感が存在しない」のですから。こういった意味で、冒頭の引用にあるように、著者は修業というものは非常に非合理的なものだ、と言います。

 

ISOマネジメントシステムにおける「力量」の要求事項

以上の議論は「修業」、特に武道的な身体運用の修業に関する議論ではありますが、ISOマネジメントシステムの視点に慣れた自分には非常に興味深いものでした。なぜなら、それがISOマネジメントシステム規格で言われている「力量」の考えとは異質なものに思われたからです。

 

ISOマネジメントシステム規格では、共通的な要素として「力量」(7.2)という項目があります。そこでまず求められるのは、ある仕事に従事する人に必要な力量を明確にすること、です。これは言い換えれば、その仕事に従事する人は「何ができなければならないか」を明確にする、ということです。そして、そのような力量を持っていない人をその仕事に従事させようとする場合には、その必要な力量を持てるようにするための「教育訓練」などの処置をとることが求められるのです。

 

職人の仕事に必要な「力量」は示せるか?

ここで、私たちマネジメントシステム審査員は、組織内のさまざまな仕事について、それを実施する上で必要とされる「力量」が予告的、網羅的かつ明示的に開示されていることを暗に期待することが多いと思います(例えば、「この加工をするにはどのようなことを理解し、どのような機械や工具を使えなければならないのか」といった形で)。

 

これは、「それができる人をその仕事に割り当てる」、逆に言えば「できない人にはやらせない」というごく当たり前の考え方に基づいており、その考え方自体は当然すぎるほど当然と言えます。しかし、本書で述べられている武道における「修業」のようなものの場合、ことはそれほど単純ではないのではないか、と考えさせられます。

 

つまり、基礎的な作業や画一的な仕事についてはそれに必要な「力量」というものを明示的に示すことは比較的簡単かもしれませんが、それが「達人技」の領域に関わるような仕事の場合、それまで同様に「必要な力量を明確にする」ことができる、と考えるのはあまりに安直な考え方なのではないか、ということです。

 

組織には、その道何十年の、達人とも言えるような職人の方々が従事している仕事があります(精密機械よりも精密な手の感覚を持った旋盤工やプレス職人、相手との絶妙な間合いを感じ取りコミュニケーションをとる営業の達人など)。そこで行われていることは、その域に達した人でなければわからない「身体感覚」としか言えないものである場合も多いでしょう。そのような仕事に対して、それに必要な「力量」を、その域に達していないどころか、まだ従事したこともない素人にわかる形であらかじめ示し、達成レベルを目標設定することなどできないのは、上に見た、修業によってしか得られない身体感覚や新たな「度量衡」をまだ持たない修業前の人に修業による成果を示し、目標設定させることができないのと同じなのではないでしょうか。

 

ISOマネジメントシステムの「守備範囲」

私たちISOマネジメントシステム審査員は、ややもするとISO規格の文言を金科玉条のように崇め奉ってしまい、それを絶対視して全ての場合に当てはめてしまおうとすることがあります。しかし、ISOマネジメントシステム規格はそもそも「世界最高レベル」の基準を示したものでは決してなく、あくまで最低限のレベルを維持するための基準を示したものです。そしてその最低限のレベルを継続して維持するための仕組みを作り、そのレベルを徐々に上げていく「継続的改善」の仕組みを内包していることに価値があるのです。

 

このようなISOマネジメントシステム規格の「守備範囲」をきちんと弁え、その守備範囲の中で要求されていることはきちんと満たしながら、一方でISOマネジメントシステムは何に対しても当てはめられる万能薬であるかのような驕った考え方に陥らないように常に自らを戒めることが重要なのだと思います。